ナチの時代、こどもですら傍観者ではいられなかった - あのころはフリードリヒがいた/ハンス・ペーター・リヒター
著者ハンス・ペーター・リヒターの、ヒトラー政権下の経験を記した、”リヒターの自伝的3部作”のうちの1作めです。大人として、こどもたちの未来にどのように責任を持つべきかを考えさせられる作品です。
概要
「ぼく」と同じアパートに住む幼なじみのフリードリヒは、ユダヤ人。1925年にふたりがうまれてから、別れとなる1942年までのことが、「ぼく」の視点で語られています。
ご想像のとおり、決して楽しいお話ではありません。
物語序盤では「ぼく」の家族とフリードリヒ一家との交流が描かれます。お互いの家を行き来して遊んだこと、アパートの庭で雪遊びをしたことなど、微笑ましい幼少期の思い出が語られます。
また、入学式のエピソードでは、フリードリヒ一家は羽振りが良く、生活面では不安がなさそうであること、一方の「ぼく」一家の暮らしぶりは豊かとは言えない様子などもわかります。
このような微笑ましい幼少期のエピソードがしばらく綴られたのち、ぼくとフリードリヒの世界が分断されていく様子が語られ始めます。
それは1933年、まだ幼い「ぼく」とフリードリヒが、ユダヤ人のお医者様の表札に、「ユダヤ人」と落書きされているのを発見することから始まります。
後世に生きる私たちは、この後彼らに一体何が起きるのかを知っています。
ナチがじわじわとユダヤ人を迫害していく様子が、こどもである「ぼく」の目線で語られます。「ぼく」一家は、フリードリヒ一家と距離を保ちながらもつきあいを続けようとしますが、周囲の状況がそれを許さなくなって行きます。「ぼく」はまだこどもではありますが、こどもですら傍観者ではいられなかったことがよくわかります。
物語の最後は、誰もフリードリヒを防空壕に入れてやらず、見殺しにしてしまうシーンで終わります。
感想
同時代を描いたフィクション作品に、クラウス・コルドンの”ベルリン3部作”があります。ナチに抵抗し続ける家族を描いており、凄惨なシーンも多くありますが、一家が持ち続けた希望に勇気付けられる作品です。
それとは対象的に、”リヒターの自伝的3部作"はナチに飲まれていく家族を描いているため、幼い「ぼく」が無邪気に生活しているシーンでも、仄暗い絶望が漂ってきます。
1933年、ナチが政権を取ったはじめのうちは、支持者たちにも「まさか本当に虐殺までやるはずがない」と思われていたようですが、結果は私たちが知っているとおりです。
「ぼく」の家族は「全てに賛成しているわけではない(ユダヤ人迫害には賛成していない)」としながらも、貧困から脱するためにナチに入党してしまいます。
党員になると住居や仕事を斡旋してもらえたようで、このように考えて入党した人は多かったようです。
しかし入党したが最後、全てに賛成せざるを得なくなり、子どもたちにも本当のことを言えなくなってしまうのです。
「大人たちのなんとふがいないことか」というのが素直な感想ですが、現代の大人である私たちはどうでしょうか。長いものに巻かれてしまったり、その場の雰囲気に流されてしまったりしたことは、誰にでもあるのではないでしょうか。
ましてや貧困の中にあり「入党すれば良い暮らしができる」と言われたら、おかしなスローガンを掲げている党であっても入党したくなるのではないでしょうか。
私は、基本的人権を侵そうとしている人や団体に、厳しくきっぱりとNOを突きつけなければならない理由は、ここにあると考えています。訳知り顔で「一理ある」などと言っていると、このような団体は人間の心の暗い部分を集め、あっという間に世界を飲み込んでしまうでしょう。
続編の「ぼくたちもそこにいた」では「ぼく」が意気揚々とヒトラーユーゲントに参加する様子が、「若い兵士のとき」では志願して片腕を失う様子が描かれます。ナチの教育を受け、周囲の大人たちからも正しいことを教えてもらえなかった少年が適応して行く様子が痛々しく感じられます。大人として、こどもたちの未来にどのように責任を持つべきかを考えさせられる作品です。
- 作者:ハンス・ペーター・リヒター
- 発売日: 2000/06/16
- メディア: 単行本
「リヒターの自伝的3部作」の2作目はこちら。
「リヒターの自伝的3部作」の3作目はこちら。
同時代を描いたフィクション作品、クラウス・コルドンの「ベルリン3部作」はこちら。